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<title>一日一漫歩</title>
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<description>ブログは、長閑（のどか）さがいいなとあたくしなんかは思います。ですから　肩の力を抜いて、ぼんやりとご覧になっていただく・・・これが一番ですな。</description>
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<pubDate>Thu, 09 Aug 2007 18:22:30 +0900</pubDate>
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<title>雪の岩上文殊</title>
<description>下校のムスメを中学に迎えに行く途中、近くの岩上文殊菩薩へ。夏には何度か訪ねたことのある文殊さまですが、雪の文殊さまにお参りするのは初めてです。その名の通り、10ｍほどの岩の上に鎮座する岩上文殊菩薩・・・文殊様への階段は途中まで、あとは急な斜面を鎖につかって登ります。頂上の文殊さまは、いつも通りに柔和に微笑んでくれました。文殊さまの雪を払い、ムスメの合格をお祈りして“下山”・・・お願いがお願いだけに、帰りの急斜面です〇ったりおち〇たりしない様に気を使います受験本番まであと少し。オヤとしてはもはやお祈りする位しかできませんが、本人の頑張りと文殊様の功徳でぜひ心願成就を果たしてもらいたいです</description>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Tue, 16 Feb 2010 06:50:29 +0900</pubDate>

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<title>孫兵衛隧道</title>
<description>遊佐町　平津地区と杉沢地区を結ぶ道路には、かつて車一台すれ違えないほどの狭い隧道（トンネル）がありました。１月10日の記事のリサナママさんのコメントで、こちらの隧道について教えていただいた私は、久し振りに行ってみる事にしました。これが孫兵衛隧道です。リサナママさんは、“別名”と書いていましたが、正式名称だったんですね。遊佐の図書館にあった『遊佐人名辞典』によると、遊佐町　杉沢出身の　社会事業家　今野孫兵衛という方が、こちらの道路の整備に取り組み、戦争末期の昭和18年から戦争直後の昭和21年に道路の計画整備を行い、さらに洪水などの災害に備えて隧道開発も計画し昭和24年４月着工、同年10月31日に開通とありました内壁のゴツゴツがこの工事のご苦労を物語るようです戦中・戦後の物資の乏しい時代に、地域の振興を願い困難な工事を成し遂げた公益の人、今野孫兵衛　氏。この町に生まれ暮らす者として、先人の御遺徳をしのび、暖かくなったら、ウチの子供たちをここへ連れて来てその事績を話してあげようと思いました。</description>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Wed, 21 Jan 2009 06:51:30 +0900</pubDate>

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<title>大楯遺跡</title>
<description>遊佐町　大楯地区にある大楯遺跡です。ここは平安末期から室町時代にかけて、この地を治めていた遊佐氏の館跡と推定されている所で、発掘調査後、遺構として保存されているようです。遺跡の真ん中には小さな祠が祀ってありました。館跡からは、鳥海山が一望できます。大昔のご領主さまも、ここから鳥海山を眺めたのでしょうか。</description>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Sat, 29 Nov 2008 10:13:08 +0900</pubDate>

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<title>タイムカプセル</title>
<description>遊佐町の中央公民館にあるタイムカプセル埋設地です。2034年に開けられるそうです。26年後ですかぁ・・・立ち会えるかなぁ</description>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Mon, 27 Oct 2008 11:07:31 +0900</pubDate>

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<title>遊佐恋観音</title>
<description>遊佐町上寺地区にある遊佐恋観音です。世に観音様は数あれど、こんなラブリーな観音様はそうは無いでしょうハートマークを身にまとって、腕を組んでいらっしゃいます。縁結びの観音様だそうです。見ていて微笑ましいですね～</description>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Thu, 24 Jul 2008 15:53:41 +0900</pubDate>

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<title>石原莞爾　墓所</title>
<description>遊佐町　西山地内にある石原莞爾氏の墓所です。戦後　西山に入植した石原氏は、『都市解体、農工一体、質素生活』のスローガンを掲げてこの地で生活していたそうです。『都市解体、農工一体、質素生活』の文字が刻まれた碑も墓所の脇にありました。墓所は綺麗に清掃されており、周囲には厳粛な空気が漂っていました。石原氏については、深い知識もありませんが戦中戦後にわたり人々に大きな影響を与えた、この地で無くなった石原氏を想い、合掌して冥福を祈りながら墓所を後にしました。国道7号線　道の駅ふらっとの近くに　墓所の案内表示があります。</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e39955.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Sat, 07 Jun 2008 08:21:06 +0900</pubDate>

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<title>豊間　源之進墓</title>
<description>遊佐町　女鹿地内の国道7号線沿いに『戊辰の役戦没者　豊間　源之進墓　入口50m』の表示があります。入口の表示の裏に豊間　源之進についての説明文がありました。～表示の説明文～豊間源之進　秋田藩士（遊撃隊令官）　秋田城下楢山裏町に生まれる戊辰の役開戦後、由利方面に出動、遊撃隊を指揮していたが女鹿の戦闘を受け戦死　三十四歳遊撃隊の司令官をなさっていたん方だったんですね。表示については前から気になっていたのですが、今回意を決して訪ねてみる事にしました。表示から奥に入ると、うっそうとした茂みになっています。細い道はすぐに急な登り坂になり、内心ビクビクしながら坂を上りきると草むらの中に、ひっそりとお墓が建っていました。墓石には『秋田藩　豊間　源之進墓』と刻んであります。140年前の戦争で命を落とし、この地へ葬られた志士を想いひと気のない山中に佇むお墓に合掌して帰って来ました。帰宅して調べて見ましたが、豊間　源之進の事績については、詳しい事は良く分かりませんでした。前に訪ねた、にかほ市　熊野神社の荒川決死隊とともに闘ったのでしょうか？お詳しい方がいらっしゃったらご教授いただきたいです。</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e39948.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Wed, 04 Jun 2008 08:33:59 +0900</pubDate>

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<title>歩々清風</title>
<description>遊佐町中央公民館の敷地内にある「歩々清風」の石碑です。”書”を書かれた金子智一先生は、町内の出身でインドネシア独立運動に関与されたあとウオーキングの普及拡充につとめてこられた方だそうです。休日のウオーキングを日課にしている私にとっては、金子先生の様な方が町出身であることに誇りを覚えます先生のひそみにならい、私も歩々清風を標榜して歩きたいと思います。※歩歩起清風（ほほ、せいふうをおこす）～一歩一歩あゆむごとに清涼な風を起こす。煩悩や分別の汚れを払い尽くした清々しい境地。～</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e38660.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Wed, 14 May 2008 08:24:13 +0900</pubDate>

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<title>象潟そぞろ歩き。</title>
<description>ほかほ市での落語会までの待ち時間、市内（象潟地区）を散策してました。歴史ある町だけに松尾芭蕉の宿泊地跡など興味深い史跡が沢山ありましたが、なかでも印象深かったのは、熊野神社です。入口に、こんな看板がありました。戊辰戦争は1868年の出来事ですから、ちょうどいまから140年前に、庄内と秋田で文字通りの命をかけた戦いがあったという事実を想い、今更ながら感慨深く眺めてきました。</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e34381.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Mon, 07 Apr 2008 06:59:00 +0900</pubDate>

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<title>土偶と青銅刀子</title>
<description>昨日の”火焔型土器”と一緒に、遊佐町の広報誌『広報ゆざ』の正月号に載っていた、”土偶”と、”青銅刀子”です。こちらはいづれも複製品で、どちらも遊佐町立図書館に展示されています。”土偶”は、昭和27年に遊佐町杉沢地区の住宅建築現場より出土したもので、現物は現在、奈良国立博物館に収蔵されているそうです。”青銅刀子”の方は、昭和27年に三崎山の採石現場より出土したもので、縄文晩期より古いもので、日本最古の青銅刀子とのことでした。こちらはの現物は、東京国立博物館に収蔵されているとの事。山のふもとにして海にも近い・・・昔から遊佐町は暮らしやすい処だったのでしょうか</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e26515.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Fri, 11 Jan 2008 06:58:00 +0900</pubDate>

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<title>火焔型土器</title>
<description>遊佐町の広報誌『広報ゆざ』の正月号に載っていた”火焔型土器”を見学しに、遊佐町役場へ これは、複製ではなく修復した本物だそうです（調査結果では、4880年前の物とか・・・）”火焔型土器”が、ほぼ完全な形で出土したのは、初めてとのことで、感慨ぶかく眺めてきました。ただ、場所が役場2階のフロアで、職員の皆様が仕事している処に無造作に置かれていて、見たり写真とったりするのは、結構ハズかしかったっすドサクサに紛れて、土器の中も写してきました</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e26468.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Thu, 10 Jan 2008 07:06:00 +0900</pubDate>

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<title>モンペはげ</title>
<description>昨日の”岩上文殊菩薩”のすぐ近くのガケです。一見ただのガケ崩れ跡（多分！）なのですが、この場所をこのあたりの人達は、「モンペはげ」と呼びます。今はかなり草に覆われていますが、20年くらい前にはもっと地面が露出していたと思います。ウチの両親に言わせると、もともとは二股のモンペのカタチになっていたとか・・・月光川の対岸から見るとこんな感じです。「モンペはげ」の地名には、おおよそ次の様ないわれがあると聞かされてました。**************************************************************昔々、兄である源頼朝に追われ、奥州平泉に逃れる途中の源義経一行がこの地を通りかかりました。この山の上から月光川の清流を望んだ義経は喉の渇きを覚え、弁慶に月光川の水を汲んでくる様に命じました。命じらられた弁慶は、水を汲みに急斜面を降りましたが、足を滑らせて月光川に転落してしまいました。弁慶が濡れたモンペを干した跡は草木が枯れ、人々はそこを「モンペはげ」と呼ぶようになりました・・・**************************************************************人によっては「鳥海山から飛島まで跨ごうとした弁慶が、海におちて濡れたモンペを干した跡だ！」と言う人もいますいずれにしても弁慶（の様な大男）がはく様な、大きなモンペの形に禿げあがった場所と、いった意味なんでしょうね。いずれの話にしても、平泉に行くのに遊佐を通ったのか・・・？弁慶はモンペをはくのか・・・？・・・・色々疑問は尽きませんが、私は親からそう聞きました。なので、子供にもそう教えます。「モンペはげ」のすぐ下には道路をはさんで月光川があり、鳥海山が望めます。義経、弁慶の一行もこの風景を見たなんて思うと、ロマンがあるじゃないですか</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e24792.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Wed, 12 Dec 2007 00:12:00 +0900</pubDate>

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<title>岩上文殊菩薩</title>
<description>遊佐町　平津地区にある「岩上文殊菩薩」です。地元では”文殊様”と呼ばれている石仏ですが、実は10ｍほどの岩の上に鎮座しています。文殊様の近くに行く階段は途中で切れており、あとは急な斜面を鎖につかまって登るしかありませんやっとの事でヨジ登って、ご尊顔を拝することができました場所は道路脇の少し入ったところなのですが、歩いている人もいないので周囲には一種張りつめた、幽玄な空気が漂ってました</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e24721.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Tue, 11 Dec 2007 00:09:14 +0900</pubDate>

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<title>遊佐村小學校運動場跡</title>
<description>遊佐町旭ヶ丘地区にある「遊佐村小學校運動場」石碑です。「明治三十七八年戦役戦捷記念」、「明治四十年九月新設」とあります。日露戦争の戦捷（戦勝）を記念して、明治四十年に運動場を作った際の記念碑の様です。地区の案内板を見ると、明治・大正期には遊佐郷の運動会が、ここで開かれていたとありますので、町を挙げての運動会が盛大に行われていたのではないでしょうか。今は、住宅地の真ん中にひっそりと石碑が残っているだけです</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e24039.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Mon, 03 Dec 2007 00:12:00 +0900</pubDate>

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<title>諏訪部権三郎碑</title>
<description>遊佐町　八日町地区の本願寺地内にある『諏訪部権三郎碑』です。諏訪部権三郎（すわべ　ごんざぶろう）は江戸時代に遊佐郷の代官だった人物です。文化元年（1804年）六月四日に鳥海山が噴火し、それに伴う地震で当時の遊佐郷約2200戸中、107戸を除いた家が大破・倒壊したそうです。この災害に諏訪部は、鶴岡の殿様の許可を待たず、独断で藩の蔵を開いて四千俵もの米を住民に与えました。（当時は殿様の許可を得るのに2～3日かかった為。）この米は、のちに殿様の心遣いにより救済米としてさし下されることとなりましたが、諏訪部はその独断をとがめられ左遷されてしまいます。災害から復興後、遊佐郷の住民は、自分たちの命を救った諏訪部の恩に報いる為にこの石碑を建て、毎年五月十五日に『諏訪部祭』を行っています。このお祭りには遊佐地区の小学三年生が地域の歴史に触れるということで参加しています。ウチの三年ボーズも今年見に行きまして、上記の説明はその時もらって来た資料を要約しました。私も子供の頃に授業で祭りの大黒舞を見て、「ハデなオバチャンが踊ってるな～」って思ったのを覚えています。（たぶんウチの三年ボーズもその程度の感想だとおもう）大人になってこの石碑を見、資料を読むと、『諏訪部さんが遊佐郷の代官じゃなかったら、ウチの先祖も生き残れていなかったかも・・・』って思ってしまいます。地味な石碑ですが、私も感謝の念をもって合掌してきました</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e21928.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Fri, 26 Oct 2007 15:09:00 +0900</pubDate>

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<title>日本ロケット発祥之碑</title>
<description>秋田へ向かう7号線で、いつも気になってる看板がありました。ここが、日本ロケット発祥の地なの...(?_?)矢印の方向へ曲がってみると、立派な石碑があります。東大のロケット実験場があったところで、日本初の実験用ペンシルロケットの発射に成功した場所だそうです　あたりは、な～にもない海っぺりで、石碑以外に実験場の痕跡はありませんが、ここでの実験が、この間打ち上げられた『かぐや』にもつながっているのかな～って思いました</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e19610.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Tue, 18 Sep 2007 10:14:00 +0900</pubDate>

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<title>力士碑</title>
<description>遊佐町千本柳地区にある石碑です。明治26年建立で、『鶴が崎、三崎山、岩が里』と彫ってあります。石碑になるくらいの力士なら、きっと有名なんだろう調べてみたが、これがわからない。図書館に行ったら、『おらえの先祖は相撲取り』（花筏　健著）という本に「三崎山は、大関　朝日嶽の門人で　幕下力士　岬山」と、書いてありました。大関　朝日嶽は、幕末から明治初期に活躍した大関で、「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、ほどのよいのが朝日嶽」と俗謡に謡われた力士です。石碑の下の方に、三崎山、岩が里の門人としてニの瀧、月光川という、遊佐近辺の地名から取った四股名が見られるところから、引退後に郷里の草相撲の力士を育成した功績を称えた石碑でしょうか。（私の想像ですが・・・）休日の”オヤジの自由研究”でしたが、結局良くわかりませんでした。（笑）</description>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Sun, 16 Sep 2007 13:06:00 +0900</pubDate>

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<title>佐藤　政養像</title>
<description>遊佐町吹浦駅前の『佐藤　政養』（さとう　まさよし）像です。佐藤　政養については、ウロ覚えで”鉄道を作った人”ってぐらいの知識しかありませんでした。勝海舟に学び勝塾の塾頭をしたり、世界地図を刊行した人でもあったんですね。一般的な意味とは異なるかも知れませんが、山形が生んだ幕末の”志士”の一人だと思います。</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e19111.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Mon, 10 Sep 2007 06:42:00 +0900</pubDate>

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<title>水力発電所跡</title>
<description>遊佐中学校の近くにある、『大楯村水力発電所跡』の記念碑です。大正の初めから、終戦直後まで遊佐町大楯（おおだて）地区22戸の生活を支えていたんですね。＞役目を終え・・・・とありますが、こんな時代だからこそ自然の力を利用した小さな発電所があちこちにあっても良いのでは．．．と夢想したりします。酒田近辺では、風力発電ののプロペラも珍しくなくなってますからね。</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e18896.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Thu, 06 Sep 2007 00:04:00 +0900</pubDate>

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<title>庚申塔</title>
<description>神社とかで『庚申』って大書された石碑を見たことはないですか？近所の神社にあるのは、こんなのです。散歩であちこち歩いていると、やたら目につくので気になって調べてみたら『庚申塔（塚）』と呼ばれるものでした。なんでも、人の体内には三尸虫（さんしちゅう）という虫がいて、その虫が60日に一度の庚申の日に、人が寝てる間にその人の悪事を天帝に報告しに行くのを防ぐ為に、夜通し眠らないで宴会などをする風習（庚申講）というのがあったそうな。んで、その庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いんだそうです。庚申塔は江戸初期以降多数建てられた、とありますので、このあたりでも庚申講は盛んに行われたのでしょうね。民間信仰とはいいながら、60日に一度夜通し行われる宴会とゆうことで、案外庶民の楽しみだったのかもしれませんね。普段なにげなく目にしている物でも、調べてみると色々わかって楽しいです。「庚申塔」の詳しい説明はこちらhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E7%94%B3%E5%A1%94</description>
<link>http://harahoro.n-da.jp/e18553.html</link>
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<category>石碑・遺跡 </category>
<pubDate>Fri, 31 Aug 2007 16:44:00 +0900</pubDate>

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